ブクステフーデ《我らがイエスの四肢》とは?バスが歌う三つのアリアと受難への祈り
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はじめに 十字架上のキリストを足元から見上げる音楽
どうも、バス歌手の氷見 健一郎です。
今回は、ディートリヒ・ブクステフーデの宗教作品《Membra Jesu nostri(メンブラ・イェズ・ノストリ)》について書いてみます。
日本語では、《我らがイエスの四肢》などと訳される作品です。
この曲は、十字架にかけられたイエスの身体を、
足
膝
手
脇腹
胸
心臓
顔
の順に見つめていく、7つのカンタータから構成されています。
題名の原題は、
Membra Jesu nostri patientis sanctissima
で、「苦しみを受ける我らのイエスの最も聖なる身体の部分」という意味を持っています。
受難の出来事を劇的に再現するというより、十字架の前にひざまずき、イエスの身体を足元から少しずつ見上げながら祈るような作品です。
その中でバスには、独唱として三つのアリアが与えられています。
この記事では、作品全体の成立と構成を紹介したうえで、バス歌手の視点から三つのアリアの役割と聴きどころをご紹介致します。
ブクステフーデとは

ディートリヒ・ブクステフーデは、17世紀北ドイツを代表する作曲家・オルガニストです。
1668年からリューベックの聖マリア教会でオルガニストを務め、教会で行われた演奏会「アーベントムジーク」の発展にも大きく関わりました。
現在ではオルガン作品で特に有名ですが、多数の宗教声楽作品も残しています。
《Membra Jesu nostri》が具体的にどの機会のために作られたのかは、確定していません。
確実に分かっているのは、自筆譜の表紙に1680年と記され、スウェーデン宮廷の音楽監督であったグスタフ・デューベンに献呈されていることです。
自筆譜は現在も、スウェーデンのウプサラ大学図書館にあるデューベン・コレクションに所蔵されています。デューベン自身の筆跡による各曲のパート譜が残ることから、ストックホルムで演奏された可能性は高いと考えられています。
《我らがイエスの四肢》はどんな作品か
《Membra Jesu nostri》は、全体で一つの物語を進めるオラトリオというより、七つの短い受難カンタータをまとめた連作です。
構成は次のようになっています。
- Ad pedes ― 足に
- Ad genua ― 膝に
- Ad manus ― 手に
- Ad latus ― 脇腹に
- Ad pectus ― 胸に
- Ad cor ― 心臓に
- Ad faciem ― 顔に
十字架の足元から始まり、最後には茨の冠をかぶせられた顔へ到達します。
この順序によって、聴き手が十字架の下にひざまずき、キリストの身体を下から上へ見上げているような視点が作られると言われています。
これは単に身体を七つに分けた珍しい作品というだけではありません。
傷ついた足や手、脇腹、心臓、顔を見つめることによって、抽象的な教義ではなく、肉体を持って苦しんだイエスを身近に感じようとする祈りです。
Clemens van den Bergは、この作品を、身体・視覚・触覚・涙・接吻など、さまざまな感覚を通してキリストの受難に近づこうとする、17世紀の身体的な信仰表現として分析しています。
中世の祈りと聖書の言葉
アリアの中心的なテキストは、中世の宗教詩 Salve mundi salutare、別名 Oratio rhythmicaから採られています。
この詩は長い間、クレルヴォーのベルナルドゥスの作とされてきましたが、現在では13世紀のシトー会修道院長、ルーヴェンのアルヌルフスの作とする見方が一般的です。
ブクステフーデは、この中世詩だけをそのまま作曲したわけではありません。
それぞれの身体部分に関係する聖書の言葉を選び、中世詩による個人的な祈りを、その聖書テキストで包むように配置しました。
基本的な構造は、
- 器楽によるソナタ
- 聖書の言葉を歌う声楽コンチェルト
- 中世詩による三つのアリア
- 冒頭のコンチェルトの再現
となっています。
Huttenはこの形を、全員で聖書の言葉を歌う共同体的な場面から、独唱による個人的な黙想へ進み、最後に再び共同体の言葉へ戻る「砂時計のような構造」と説明しています。
作品が大規模なドラマとして外へ向かうのではなく、聴き手の心の内側へ深く入っていく理由も、ここにあるように思います。
演奏編成と響き
基本編成は、ソプラノ2人、アルト、テノール、バスの五声と、2本のヴァイオリン、低音楽器、通奏低音です。
声楽コンチェルトでは複数の声が重なり、アリアでは一人または少人数の声へ絞られます。
ただし、第6カンタータ〈Ad cor―心臓に〉では、ヴァイオリンの代わりに5声のヴィオラ・ダ・ガンバ合奏が用いられます。
Huttenは、この楽器変更によって〈Ad cor〉に繊細で揺らめくような音色が生まれ、連作の中でも最も親密な場面が作られると指摘しています。
Van den Bergも、〈Ad cor〉をテキストと音楽の両面における全曲の頂点と位置づけています。
バスが歌う三つの独唱アリア
この作品でバスが独唱として歌うアリアは、次の三曲です。
- 〈Ad pedes〉の Dulcis Jesu, pie Deus
- 〈Ad pectus〉の Ave, verum templum Dei
- 〈Ad cor〉の Viva cordis voce clamo
バスは、このほかにも合唱や三重唱などに参加します。
ここでは、楽譜上でバス一人に与えられている、この三つのアリアに絞って紹介します。三曲の声部指定とテキストは、現存楽譜およびEmmanuel Musicの作品資料でも確認できます。
1.〈Ad pedes〉Dulcis Jesu, pie Deus
最初のバスアリアは、第1カンタータ〈Ad pedes―足に〉の中で歌われます。
歌詞
Dulcis Jesu, pie Deus,
ad te clamo licet reus,
praebe mihi te benignum,
ne repellas me indignum
de tuis sanctis pedibus.
優しいイエス、慈悲深い神よ、
罪ある者ではありますが、私はあなたに呼びかけます。
どうか私に慈しみを示し、
ふさわしくない私を、
あなたの聖なる足元から追い払わないでください。
このアリアで歌われるのは、受難の情景そのものというより、十字架の足元にいる罪人の祈りです。
「自分には、ここにいる資格がないかもしれない」
しかし、それでもイエスに近づき、足元にとどまることを願う。
バス歌手として見ると、最初から威厳や権威を示す曲ではありません。
むしろ、自分の罪とふさわしくなさを認めながら、静かに慈悲を願う歌です。
低声の深さは、ここでは神の声を表すためではなく、人間の弱さとへりくだりを表すために使われています。
声を過度に暗くしたり、重く構えたりするよりも、言葉を自然に運びながら、祈りの切実さを失わないことが大切だと思います。
2.〈Ad pectus〉Ave, verum templum Dei
二つ目のバスアリアは、第5カンタータ〈Ad pectus―胸に〉に置かれています。
歌詞
Ave, verum templum Dei,
precor, miserere mei,
tu totius arca boni,
fac electis me apponi,
vas dives, Deus omnium.
万歳、神のまことの神殿よ。
どうか私を憐れんでください。
あらゆる善を収める櫃よ、
私を選ばれた者たちの中に加えてください。
豊かな器よ、万物の神よ。
このアリアでは、キリストの胸が「神殿」「櫃」「器」という宗教的な象徴によって呼びかけられています。
第1曲のバスアリアでは、罪人が足元から追い払わないでほしいと願っていました。
ここではもう一歩進み、自分も選ばれた者の中へ加えてほしいと願います。
音楽を歌ううえでも、単に暗い受難の色だけでは足りません。
このテキストには、キリストの身体を神が宿る聖なる場所として仰ぐ、ある種の荘厳さがあります。
その一方で、「私を憐れんでください」という個人的な祈りも失われていません。
バスには、低声の安定感と、祈る者としての柔らかさの両方が必要になるアリアだと思います。
3.〈Ad cor〉Viva cordis voce clamo
三つ目のバスアリアは、第6カンタータ〈Ad cor―心臓に〉の中で歌われます。
歌詞
Viva cordis voce clamo,
dulce cor, te namque amo,
ad cor meum inclinare,
ut se possit applicare
devoto tibi pectore.
私は心の生きた声で呼びかけます。
優しい心よ、私はあなたを愛しています。
どうか私の心へ身を傾けてください。
私の心があなたに結びつくことができるように、
あなたに捧げた胸をもって。
ここでは、「心」という言葉が繰り返されます。
イエスの心臓に向かって、歌い手自身の心が呼びかけ、自分の心をキリストの心へ結びつけてほしいと願っています。
さらに〈Ad cor〉では、声を包む楽器がヴァイオリンからヴィオラ・ダ・ガンバ合奏へ変わります。
きらびやかに外へ広がる響きではなく、柔らかく、内側へ沈み込むような音色です。
その響きの中で歌われるバスアリアは、三曲の中でも最も親密な祈りとして感じられます。
ここで必要なのは、重量感よりも温かさだと思います。
「私はあなたを愛しています」という言葉を、感傷的になりすぎず、かといって客観的な説明にもせず、どれだけ直接的に歌えるか。
バスの低い響きが、聴き手を圧倒するのではなく、ヴィオラ・ダ・ガンバの音色の中に溶けながら、心の深い場所へ届くことが理想です。
三つのアリアから見えるバスの役割
三曲を並べてみると、バスの役割には一つの流れがあるように感じます。
最初の〈Dulcis Jesu〉では、罪ある者としてイエスの足元にとどまることを願います。
次の〈Ave, verum templum Dei〉では、キリストを神の神殿として仰ぎ、自分を選ばれた者の中に加えてほしいと祈ります。
最後の〈Viva cordis voce clamo〉では、キリストの心と自分の心が結びつくことを願います。
つまり、
足元にひざまずく祈り
から、
キリストの内側へ迎えられる願い
を経て、
心と心が結びつく祈り
へ進んでいきます。
これは三つのテキストを並べた時に私が感じる、バス独唱の内面的な道筋です。
バスは物語を外側から説明する語り手でも、神の権威を代弁する役でもありません。
ここで歌っているのは、一人の罪人としてキリストに近づこうとする人間です。
この点が、後世のオラトリオに見られる劇的で力強いバスアリアとは異なる、《Membra Jesu nostri》独自の魅力だと思います。
バス歌手として感じる演奏上の難しさ
この三つのアリアは、声の大きさや低音の迫力を競う音楽ではありません。
編成が小さく、声と通奏低音、弦楽器との距離が近いため、歌手の言葉と呼吸がそのまま音楽に現れます。
特に大切なのは、ラテン語の明瞭さと旋律の流れを両立させることです。
子音を強く出しすぎれば祈りの流れが途切れます。
一方で、響きだけを優先すると、個人的で直接的なテキストが届かなくなります。
また、三曲を同じ暗い声色で歌わないことも大切だと思います。
〈Dulcis Jesu〉には、罪を自覚するへりくだり。
〈Ave, verum templum Dei〉には、神聖なものを仰ぐ落ち着き。
〈Viva cordis voce clamo〉には、愛情と親密さ。
低声の基盤を保ちながら、それぞれの祈りに応じて響きの温度を変えていく必要があります。
この作品のおすすめの聴き方
バスアリアだけを抜き出して聴いても、それぞれに美しい曲です。
ただし、できれば七つのカンタータを最初から通して聴くことをおすすめします。
この作品の魅力は、一曲ごとの華やかさではなく、
足から顔へと視線が上っていく構成
全員で歌う聖書の言葉と、個人的なアリアの対比
ヴァイオリンからヴィオラ・ダ・ガンバへ変わる音色
祈りが次第に身体の内側へ入っていく感覚
にあります。
全曲を通して聴くことで、〈Ad cor〉の静けさや、最後の〈Ad faciem〉に到達した時の意味も、より深く感じられると思います。
まとめ 低声が導く、外側から心の内側への祈り
ブクステフーデ《我らがイエスの四肢》は、十字架上のキリストの身体を、足元から顔まで見つめていく七つの受難カンタータです。
その中でバスは、三つの独唱アリアを歌います。
〈Dulcis Jesu, pie Deus〉では、罪ある者として足元にとどまることを願う。
〈Ave, verum templum Dei〉では、キリストを神の神殿として仰ぎ、憐れみを求める。
〈Viva cordis voce clamo〉では、自分の心をキリストの心へ結びつけてほしいと祈る。
この三曲で求められるのは、英雄的な強さではありません。
自分の弱さを認める深さ。
神聖なものを仰ぐ静けさ。
そして、心から直接呼びかける温かさです。
《我らがイエスの四肢》におけるバスは、作品を低いところから支えるだけではありません。
十字架の足元から、祈る者の心の内側へ聴き手を導く存在です。
その親密さこそが、この三つのバスアリアの大きな魅力だと思います。
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