モーツァルト《レクイエム》Tuba mirumとは?バスソロとトロンボーンが告げる最後の審判

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はじめに|激しい《怒りの日》のあとに響く一本のトロンボーン

どうも氷見です。

今回は、モーツァルト《レクイエム》の中から、バスソロで始まる〈Tuba mirum〉を取り上げます。

〈Tuba mirum〉の直前に置かれているのは、合唱とオーケストラが最後の審判の恐怖を激しく描く〈Dies irae(怒りの日)〉です。

その激しい音楽が終わると、空気は一変します。

静けさの中から一本のトロンボーンが現れ、その旋律に導かれるようにバスソロが歌い始めます。

描かれているのは、最後の審判を告げるラッパの音です。墓の中で眠る死者たちが呼び起こされ、神の玉座の前へ集められていく。題材だけを見れば、もっと激しく恐ろしい音楽になっても不思議ではありません。

しかし、モーツァルトが書いた音楽は、どこか優美で、流れるようでもあります。

なぜ「世界中の死者を目覚めさせるラッパ」が、このような音楽として描かれているのでしょうか。

この記事では、〈Tuba mirum〉の歌詞の意味、トロンボーンとバスソロの関係、未完作品ならではの問題、そして演奏を聴く際に注目したいポイントをまとめます。

モーツァルト《レクイエム》とはどんな作品か

《レクイエム ニ短調 K.626》は、モーツァルトが1791年、亡くなる直前まで作曲していた「死者のためのミサ曲」です。

モーツァルトは作品を完成させることなく、1791年12月5日に亡くなりました。その後、複数の音楽家が補筆に関わり、最終的にはフランツ・クサーヴァー・ジュスマイヤーによる完成版が、長く標準的な形として演奏されてきました。

現在ではジュスマイヤー版だけでなく、ロバート・レヴィンをはじめとする研究者や作曲家による複数の補筆版も演奏されています。

そのため《レクイエム》を聴く際には、

「どこまでがモーツァルト自身の音楽なのか」

という問題がつねについて回ります。

Tuba mirumも例外ではありません。

モーツァルトの自筆譜には、独唱声部、独奏トロンボーン、低音部を中心とした音楽の骨格が残されていますが、管弦楽のすべてが完成された状態ではありません。現在一般的に演奏されている形には、ジュスマイヤーらによる補筆も含まれています。

ただし、曲の中心となるバスソロと冒頭のトロンボーン独奏は、モーツァルト自身が書いた部分です。

〈Tuba mirum〉は《レクイエム》のどこで歌われる?

Tuba mirumは、《レクイエム》の「セクエンツィア(続唱)」と呼ばれる部分で歌われます。

主な流れは次の通りです。

  • Dies irae
  • Tuba mirum
  • Rex tremendae
  • Recordare
  • Confutatis
  • Lacrimosa

〈Dies irae〉では、怒りの日、つまり最後の審判の恐怖が、合唱とオーケストラによって激しく描かれます。

その直後に置かれた〈Tuba mirum〉では、大編成の合唱から一転して、一本のトロンボーンとバスソロが登場します。

大きな集団が描く恐怖から、ひとりの人間が審判の到来を語る場面へ。

この急激な視点の変化が、〈Tuba mirum〉を強く印象づけています。

〈Tuba mirum〉の歌詞は何を意味しているのか

バスソロが歌う冒頭のラテン語は、次の通りです。

Tuba mirum spargens sonum
per sepulcra regionum,
coget omnes ante thronum.

大意は、

不思議なラッパが、その響きを各地の墓へ鳴り渡らせ、すべての者を神の玉座の前へ集める。

という内容です。

ここでいう「tuba」は、現代の低音金管楽器であるチューバを意味しているわけではありません。

ラテン語の「tuba」は、ラッパや喇叭のような、何かを告げる管楽器を表す言葉です。ここでは聖書に描かれた「最後のラッパ」、つまり死者の復活と審判の到来を知らせる象徴として使われています。

続く歌詞では、死と自然が驚き、造られたすべてのものが審判者に答えるために立ち上がる様子が歌われます。

さらに、すべてが記された書物が差し出され、人間の行いが裁かれる場面へと進みます。

そして最後には、

正しい者でさえ安心できないのなら、私は誰に救いを求めればよいのか。

という、個人的で切実な問いへたどり着きます。

Tuba mirumは、壮大な終末の光景から始まりながら、次第に「自分は救われるのだろうか」という一人の人間の不安へと焦点を絞っていく曲なのです。

なぜトランペットではなくトロンボーンなのか

最後の審判の「ラッパ」と聞くと、現代の感覚ではトランペットの鋭く輝かしい音を想像するかもしれません。

しかしモーツァルトは、ここで独奏トロンボーンを使いました。

トロンボーンはイタリア語で「大きなトランペット」を意味する言葉です。また、モーツァルトの時代のナチュラル・トランペットは、現在の楽器のように半音階を自由に演奏できる構造ではありませんでした。

それに対して、スライドを持つトロンボーンは、滑らかな旋律や半音階的な動きを演奏できます。

さらに18世紀のオーストリアでは、トロンボーンは教会音楽や死、超自然的な場面と強く結びついた楽器でした。

モーツァルト自身も、オペラ《ドン・ジョヴァンニ》の石像の騎士長が現れる場面や、宗教作品などでトロンボーンを印象的に用いています。

したがって、Tuba mirumでトロンボーンが最後のラッパを表すことは、当時の聴衆にとって、現代の私たちが感じる以上に自然で象徴的な選択だったと考えられます。

モーツァルトは、なぜ最後の審判を優美に描いたのか

ここが〈Tuba mirum〉の最も興味深い点です。

歌詞が描くのは、世界中の墓にラッパが鳴り響き、死者が起こされ、神の前で裁かれるという恐ろしい光景です。

ところが、モーツァルトのトロンボーン独奏は、巨大な警報のようには響きません。

流れるような旋律を持ち、バスソロとの間には、ほとんど対話のような優雅さがあります。

この違いについては、昔から多くの批評家が疑問を呈してきました。

ベルリオーズは1834年の批評で、世界中に響いて死者を墓から呼び起こす「最後のラッパ」を、一本のトロンボーンだけで表現することに疑問を呈しました。後世にも、歌詞が描く最後の審判の恐ろしさに対して、トロンボーン独奏があまりに装飾的で優美ではないか、という批判が繰り返されています。

一方、トロンボーン奏者・研究者のDouglas Yeoは、この独奏を単に「迫力不足」と判断するのではなく、モーツァルト以前や同時代の〈Tuba mirum〉にも、トロンボーンを独奏的に用い、緩やかで装飾的な音楽として描いた例があることを示しています。さらに、18世紀のオーストリアにおいてトロンボーンが教会音楽や死、超自然的な場面と深く結びついていた背景を踏まえると、モーツァルトの書法は当時の伝統から大きく外れたものではないと考えられます。

つまり、モーツァルトは最後の審判を、大音量による恐怖だけで表現しようとしたのではないのかもしれません。

死者を起こすラッパは、外側から人間を脅かす音ではなく、遠くから届く避けられない呼び声として響く。

そう考えると、この曲の静かで美しい始まりが、かえって不気味にも感じられます。

〈Dies irae〉が集団的な恐怖を描く音楽だとすれば、〈Tuba mirum〉は、一人ひとりが審判へ呼び出される瞬間を描く音楽なのかもしれません。

自筆譜には冒頭の強弱記号が書かれていない

演奏上、興味深い事実があります。

モーツァルトの自筆譜には、冒頭のトロンボーン独奏に明確な強弱記号が書かれていません。

現在は、柔らかくレガートに演奏されることが多いですが、少なくとも冒頭を「必ず弱く、穏やかに演奏する」とモーツァルトが明記したわけではありません。

また、拍子は4分の4拍子ではなく、2分の2拍子です。

この違いは重要です。

4拍を細かく数えると、音楽が重く停滞しやすくなります。一方、2拍子として大きく捉えると、トロンボーンの旋律にもバスソロにも、前へ進む流れが生まれます。

Tuba mirumは荘厳な曲ですが、必要以上に遅く、重々しく演奏することだけが正解ではありません。

死者を呼び起こす言葉の重みと、モーツァルトの音楽が持つ自然な流動性。その両方をどのように成立させるかが、この曲の難しいところだと思います。

バスソロとトロンボーンは、どのように関係しているのか

冒頭では、まずトロンボーンが旋律を提示します。

その後、バスソロが同じ音楽世界へ入り、トロンボーンは歌声に寄り添うような細かな動きを見せます。

ここで大切なのは、バスとトロンボーンが競い合っているわけではないということです。

トロンボーンが審判の到来を知らせ、バスがその意味を人間の言葉として伝える。

あるいは、トロンボーンが天上からの呼び声であり、バスがそれを受け取る地上の声である。

そのように聴くこともできます。

バス歌手の側から見ると、トロンボーンの旋律が終わるのを待って歌い始めるだけではなく、その音色と呼吸を受け継いで声を出すことが重要です。

低い声を必要以上に強調すると、トロンボーンとの対話が途切れてしまいます。一方、軽く歌いすぎれば、最後の審判を告げる言葉の重みが失われます。

深さと流れ、威厳と柔らかさ。

その両立が求められるバスソロです。

〈Tuba mirum〉はバスだけの曲ではない

Tuba mirumというと、冒頭のトロンボーンとバスソロが特に有名です。

しかし、曲はバスだけで終わるわけではありません。

続いてテノール、アルト、ソプラノが順に加わり、最後には四人の独唱者によるアンサンブルへと発展します。

バスが歌うのは、墓を越えて響く最後のラッパ。

テノールは、死と自然が驚く様子を歌います。

アルトは、すべてが記された書物が差し出されることを語ります。

ソプラノは、審判者の前では隠されたものも明らかになると歌います。

そして四人は、自分は誰に救いを求めればよいのかと問いかけます。

宇宙的な審判の光景が、声部を受け渡されながら、最後には個人の恐れと救いへの願いへ変わっていく。

この構成も、〈Tuba mirum〉の大きな聴きどころです。

バス歌手として感じる難しさ

Tuba mirumは、低声の豊かさを聴かせられる曲です。

しかし、単に低く、太く、重く歌えば成立するわけではありません。

冒頭には、審判の到来を告げる説得力が必要です。

同時に、旋律にはモーツァルトらしい自然な流れがあり、トロンボーンとの対話も保たなければなりません。

特に意識したいのは、次のような点です。

  • トロンボーンの音色と呼吸を受け取って歌い始めること
  • ラテン語の子音を明瞭にしながら、旋律の流れを止めないこと
  • 低音の深さと2拍子の推進力を両立させること
  • 「恐ろしさ」を声量だけで表現しないこと
  • 次のテノールソロへ自然に音楽を受け渡すこと

低声の存在感を持ちながら、音楽を重くしすぎない。

そのバランスに、バス歌手としての力量が表れる曲だと思います。

初めて聴く人に注目してほしいポイント

初めてTuba mirumを聴く方は、次の流れに注目してみてください。

まず、直前のDies iraeの激しさを聴きます。

その音楽が突然途切れ、静けさが訪れます。

次に、一本のトロンボーンがどのような音色で始まるかを聴いてみてください。

力強い警報のように聞こえるのか。
遠くから届く呼び声のように聞こえるのか。
それとも、どこか人間的な温かさを持って聞こえるのか。

そして、バスソロがトロンボーンの音色をどのように引き継ぐかにも注目してみてください。

その後、歌がテノール、アルト、ソプラノへ受け渡され、最後に四重唱へ広がっていく過程を追います。

恐怖の場面でありながら、音楽はどこか美しい。

その矛盾こそが、Tuba mirumを特別な音楽にしているのだと思います。

まとめ Tuba mirumは恐怖を叫ぶ音楽ではない

モーツァルト《レクイエム》のTuba mirumは、最後の審判を告げるラッパの響きから始まります。

しかしモーツァルトは、その場面を大音量の恐怖だけでは描きませんでした。

一本のトロンボーンとバスソロによって、静かに、避けることのできない呼び声として描いています。

歌詞が語るのは、墓の中の死者が呼び起こされ、すべての人間が神の前で裁かれるという壮大な光景です。

しかし音楽は次第に、一人の人間が「私は誰に救いを求めればよいのか」と問う場面へ近づいていきます。

宇宙的な最後の審判と、個人的な恐れ。

威厳のあるトロンボーンと、流れるようなモーツァルトの旋律。

その両方が同時に存在するところに、Tuba mirumの魅力があります。

《レクイエム》を聴く際には、バスソロの低い響きだけでなく、トロンボーンから声へ、そして四人の独唱者へと音楽が広がっていく流れにも、ぜひ注目してみてください。


バスソロの聴きどころに興味のある方は、ベートーヴェン《第九》のバスソロについて解説した記事もご覧ください。

また、ハイドン《天地創造》バッハ《ロ短調ミサ》についても、初めて聴く方に向けた解説記事を掲載しています。合わせてご覧いただけますと幸いです。

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